【MultiCulture】歴史を歩む4

Chapter 4

フレンチ・インディアン戦争

インディアン戦争
1フィリップ王戦争(1657年6月~1676年8月)
2ウィリアム王戦争(1689年~1697年)
3ラル神父戦争(1722年7月25日~1725年12月25日)
4ル・ルートる神父戦争(1749年~1755年)
5ジョージ王戦争(1744年~1748年)
6フレンチ・インディアン戦争(1754年~1760年)

ヨーロッパ人が北アメリカに上陸し、植民地の開拓を始めてから、来たアメリカの紛争が止まらなかったです。その中に影響が大きいのがインディアン戦争でした。インディアン戦争のメイン戦場はアメリカになり、その中にカナダに一番影響があったのがフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)でした。

北アメリカに戦争が勃発した1754年(ヨーロッパの七年戦争に二年先だつ)までには、イギリス植民地の人口は約200万に達していたが、一方フランス人は北アメリカ全域で八万足らずしかいなかったです。したがって、仮にイギリスの海軍力の優越を全く度外視するにしても、フランス側が戦い抜くためには、並々ならない武勇と団結力が必要でした。

フレンチ・インディアン戦争(1754年~1763年)の初めの四年間は、フランス側に極めて有利に展開し、また事実上、主にオハイオ地域をめぐる抗争の継続であった。……1755年、イギリス側からは四度にわたってニューフランス大攻撃が仕掛けられたが、成功したのは一回だけであった。アカディア本土のフランス側陣地の攻略であった。1756年、すなわちヨーロッパ七年戦争の第一年目、フランスは卓越した将軍モンカルム侯爵の統率下、かなりの増援部隊をセントローレンス植民地に送った。イギリス側の将軍はジェームズ・ウルフであったが、両者はともに読書をこよなく愛し、自由思想を信奉した貴族であり最後の決戦で、英仏両国がそれぞれこの感受性豊かな英才をケベックという祭壇に犠牲としてささげることになったのは、実に不幸なめぐりあわせであった。
一万のフランス正規兵とカナダ民兵や毛皮商人を結集させ、その技量を大胆に用いた一連の優れた攻撃で、モンカルムは、はじめのうちに大きな数的劣勢を克服していた。彼は、イギリス植民地間の不和や、イギリス軍指揮官が荒野での戦闘に不慣れであったことに乗じてオスウェゴ砦を攻略し、ニューヨーク北部のイギリス前哨基地を八回し、全フロンティア沿いのイギリス植民地軍を動揺させ続けた。しかし、彼の力に余る三大要素が、迫りくるニューフランスの悲劇の渦にモンカルムを巻き込むことになった。
K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.

インディアン戦争には、イギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われました。1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となりました。戦場は主にヌーベルフランスとバージニア植民地からノヴァスコシアに至るまでのイギリス人入植地との境界に沿って行われました。戦争の発端はアレゲニー川とモノンガヘラ川が合流する場所(現:Pittsburgh)で起きた紛争でした。この紛争は1754年5月、ジュモンヴィるグレンの戦い(Battle of Jumonville Glen)において、バージニア民兵隊の指揮官ジョージ・ワシントン(George Washingtonがフランスの巡回兵を待ち伏せして起こした暴動に発展しました。1755年~1757年のペンシルベニアとニューヨーク植民地における作戦はことごとく失敗しました。失敗の原因は同盟の管理する上でのまずさ、内輪もめ、そしてフランスとインディアン透明の攻撃が功を奏したためでした。1755年のノヴァスコシアとアカディア境界で起きたボーセジュールの戦いはイギリスがアカディア人をこの地から追い出した結果、アカディア人の抵抗が起きたものでした。

1757年、イギリスに敗戦が続き、ルイブールへの遠征の失敗、ウィリアム・ヘンリー砦の戦いでインディアンによるイギリス兵の残虐行為などがありました。イギリス本国政府は評価を落とし、ウィリアム・ピットが首相の地位を回復しました。ピットは植民地の軍事力を大幅に増やし、一方フランスはヌーベルフランスの限られた戦力の援助のために、護送船団を出すのには乗り気でなく、代わりにヨーロッパの戦争でプロシャとその同盟国に対する軍事力を結集するのを優先させました。1758年から1760年の間、イギリス軍はヌーベルフランスの中心地ケベックの陥落に成功し、1760年9月、モントリオールを攻略しました。
この結果、イギリスは第二次百年戦争ともいえる北米植民地戦争の参戦国で最も大きな発展を遂げることになりました。フランスはミシシッピ川以西のルイジアナを同盟国のスペインに割譲しました。これはスペインが敗戦によりフロリダをイギリスに割譲した代償でした。スペインはイギリスにフロリダを割譲した見返りに、キューバのハバナを手に入れました。カリブ海から北のフランスの植民地はサンピエール島とミクロン島だけになりました。これにより、イギリスは北アメリカ東半分の植民地勢力の支配を固めたのでした。

この戦争は1763年2月10にっひのパリ条約署名で正式に終止符が打たれ、ヨーロッパを舞台にした七年戦争も2月15日のフベルトゥスブルク条約(Frieden von Huvertusburg)で終結しました。この戦争はヨーロッパの大国の経済、政治、そして行政の面と社会の面で関係を大きく変えました。これらの国の植民地や入植者、そして原住民の人々は、彼らが領有した土地に住無ことになりました。フランスとイギリスはこの戦争でかなりの経費を使い、これが後々長期にわたり重大な問題となりました。

イギリスはヌーベルフランスとアカディアを支配下に置き、その約8万人の人口の大部分はフランス語を話すカトリック信者でした。1755年に始まったアカディア人の追放は最終的にはヨーロッパや南のほうの植民地からの入植者を受け入れ可能にしました。イギリスは北アメリカの植民地のあちこちに彼らを入植させったが、多くはヨーロッパに戻り、一部はニューオーリンズに行きました。

……それはケベック征服し、アケージア人を追放したというだけのことであって、アメリカにおける「フランスの存在事実」そのものの終焉を意味することには決してならなかった。英帝国の国益追求と支配を通じて、さらには確固としたフランス系カナダ人の帰属意識と目的観を通じて、彼らの故郷はどうかされずに独自の影響力を保持してそこにとどまることになるのである。毛皮商人やフランス系住人の子孫はルイジアナのような運命にあうことはなかった。にもかかわらず、征服者がそこにいるという事実が想像力と記憶力の豊かなケベック人の心の中で絶えずうずき、後世のフランス系カナダ人の旺盛な民族意識の由来するところとなるのである。
K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.

平和条約の後、ジョージ3世が国王宣言を10月7日に行われました。これは新しくイギリス領となった土地の区分と行政の概略で、このうちの一部は現在のカナダの行政とインディアンの関係に引き継がれています。インディアンにはアパラチア山脈の西部を居住地とするといった条項があり、西の境界の入植者の勢いが高まっていたことがありました。この声明にはカトリック信者のカナダ人の公民としての参加を妨げる条項もありました。1774年のケベック法による和解で、これらの諸問題は処理されたが、宗教に関しては13植民地の多くはプロテスタントが、カトリックを大きく上回っていました。
多くのインディアンにとって、北アメリカでのフランスの軍事力が失われたことは、強力な同盟の消失を意味し、イギリス支配でそれが埋め合わされたことは、彼らにとって最大の追い立てが始まることでした。オハイオ領土は特に、法的、あるいは非合法いずれの入植地も攻撃されやすかったです。ブラドックとフォーブズがこの地へ軍事用の道路を作りました。スペインはルイジアナの領土を手に入れたが、戦争の反響が穏やかなのはここだけだったのです。イギリスがフロリダを手に入れると、ここの部族は西へと移動しました。彼らはイギリス人と仕事をしたくなかったのでした。フロリダの支配が変わることで、この地のカトリックのスペイン人入植者もまた移動しました。大部分はキューバへ行きました。


フレンチ・インディアン戦争資料サイト:http://www.militaryheritage.com/7yrswar.htm

カナダ戦争博物館(Canadian War Museum)

カナダ戦争博物館はオタワにあり、カナダが関係した戦争の資料を展示する博物館で、世界的武力紛争を研究そして理解するためにある場所です。2005年5月8日、第二次世界大戦終戦60周年の記念と、戦争博物館の125周年記念として、カナダ戦争博物館の新館がオタワに開館しました。館内には「カナダ経歴展示会」があり、カナダの早期から近代まだの紛争に関するものを展示しております。カナダの歴史を知るには絶好の場所です。館内は広く、休憩用のカフェもあります。
住所:Canadian War Museum, 1 Vimy Place, Ottawa, ON K1A 0M8
公式サイト:http://www.warmuseum.ca/

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