【MultiCulture】歴史を歩む3


(Ceiling of Basilique-cathédrale Notre-Dame de Québec)

 

Chapter 3

ヌーヴェルフランスの宗教による発展

……ヌーヴェル・フランスの地はカナダと呼ばれ、神の助けにより、そこに住む民に真の神を知らしめ、彼らを文明化し、教化し、ローマ・カトリック教信仰に導くよう努めるため、植民地を建設することができるように集落がある。……
Acte pour l’etablissement de la Compagnie des Cent Associes pour le commerce du Canada, contenant les articles accordes a la dite Compagnie par M. le Cardinal de Richelieu, le 29 avril 1627 (訳:小畑精和)

フランスの30年戦争によって、国家援助が少なくなった投資家たちの情熱が大いに影響され、植民地の乏しい利潤息をくじかれました。そのため、交易の実際の支配権はカナダに住む一群の商人たちの手に渡ってしまいました。その時、投資や毛皮交易の利益のためでなく、別の目的をもってこの大陸に来た人々がいました。そのメインになっていたのが伝道のための人だったのです。この伝道熱はフランス系カナダで一番確固とした目的を早期に確立したのでした。

最初のイエズス会の宣教師は1625年にケベックに上陸しました。その後、伝道団や教区牧師などが絶え間なく渡来しました。1659年、フランソワ・ド・モンモランシ―・ラバル(Saint François de Montmorency-Laval )はイエズス教会の長に命じられ、1674年にはニューフランス司教に任じられました。その時までに「彼は教皇至上権論の伝統を確立し、カナダがフランスの植民地であった間にローマ教皇に対する忠誠心を、スランスに対する忠誠心とほぼ同程度にまで育てあげました。こうして、ごく最近までケベックでは、フランス王家の紋章である白ゆりの紋章ト同じくらい、教皇旗が一般的によく使われていたのである。」【(1997)「史料が語るカナダ」,日本カナダ学会編】

1659年から1685年まで最高位聖職者として、ラバルは教区牧師の支配、イエズス会との緊密な理解、そして最高会議内での彼の地位をと通じて、相当大きな権限を行使しました。彼は頑固な教皇権至上主義者であったため、ダルジャンソンや短期で洗礼を重んじるフロンテナクなどの総督の反対、さらには教皇権制限主義者タロンの強硬な敵意をも招きガキでありました。道徳の面で、彼の影響力は主としてその禁欲的な生活態度に由来していました。尊大にも彼は、聖職者は植民地の道徳に関して細かに規制する権限があると主張し、多くの商人や一部の陽気な人に反対されましたが、たいていの住民に受け入れられました。教会はニューフランスの日常生活の中心的存在となっていて、その結果、教会中心の政治が生まれ、フランス系カナダ人の心残ってきましたということです。ラバルは広大な教会領土を確保し、イエズス会伝道団への土地の寄贈を歓迎するころいよって、その神権政治的政治傾向を助長しました。

「ヌーヴェル・フランス植民地が国王直轄領となるに及び、総督・地方長官と並んで最高評議会の中心となり、その宗教的意図に基づく情熱と決断力をもって、屡々政策を左右した。ヒューロン族(Hurons)ヘの布教を通じて毛皮交易上の協カ関係を築き上げ、敵対するイロコワ族(Iroquois)間へも危険をおして精力的な伝道を押し進めた。1663年、ケベックにカナダ人宣教師養成のための神学校を開設したが、これが現在のラヴァル大学の基となった。 」

【ラヴァル司教(Bishop Laval, Francios de Montmorency 1623-1708)】(江川良一)

 

イエズス会の考えから言いますと、彼らはカナダを移民の反宗教改革基地にしようとしました。初期の毛皮取引には原住民ユグノー族が重要な役割を果たしましたが、だんだんプロテスタントは植民地での定住はかなり脅かされていました。その影響にもよりまして、北アメリカの人口増加と商工業の進展には大幅な遅れを招きました。

ニューフランスの伝道事業は慎重に進展していました。が、伝道も植民地の毛皮交易と密接することが避けては通らない道となっています。宣教師は多くの部落の人と接触し、最後にはオンタリオ湖北にあるニューロン族の信用を勝ち取って、彼らからジョージアン湾コアンに「サンマリー」という伝道本部を設立することを許可されました。その後、伝道師たちは近隣部族の毛皮商人と仲良くなり、伝道をどんどん進んでいきました。

ヒューロンの居住地区はそれほど大きくはありません。端から端まで三、四日もあれば行き着くことができます。立地条件素晴らしく、その大部分は平地にあります。周りには多数の美しい湖水があり、多くの河川も交差しております。そのため、北と北西に流れる河川は「淡水の海」と言われたりします。……二十の部落があり、そこには約三万人がいて、みな同じ言葉を話しています。……
彼らは魂の不滅を信じており、それを彼らは有形なものの中に見出しているのです。彼らの宗教上の大きな意味はまさにこの点にあります。私たちは、所有物のほとんどすべてを空っぽにしてしまう人を何人かみましたが、それは彼らの友人がなくなると、その魂に対して贈り物を捧げたからなのです。さらに、犬、魚、鹿、及び他の動物も、彼らの意見によると、不滅であり、それなりに魂を持っているのです。
<史料名>Relations des jesuites (1635) ジャン・ド・ブレビュフ神父の手紙
(1997)「史料が語るカナダ」,日本カナダ学会編.

1604年ごろまでに、イロコイ族はヒューロン族を駆逐して、オランダ商人の毛皮を大量に流す準備をし始めました。1648年には、イロコイ族の戦闘部隊がオンタリオ半島を横切り、途中のヒューロン族を殺戮し、サンマリーを破壊しました。そしてイロコイ族の兵士たちがセントローレンス川のフランス基地を包囲し、ケベックとスリーリバーズを襲撃し、ついにモントリオールを危険の地に追い込みました。1660年、イロコイ族の攻撃が頂点になり、アダム・ドラーと少数の部下の英雄的死闘によって撃退されました。ドラーはイエズス会の殉教者とともに、カナダ伝説の中で高い地位を占めています。


フランソワ・ド・モンモランシ―・ラバル
(Saint François de Montmorency-Laval)

フランソワ・ド・モンモランシ―・ラバル、通称フランソワ・ド・ラバル(1623年4月30日~1708年5月6日)はケベック初のローマカトリック主教でした。ラバル36歳の時にローマ教皇アレクサンダー7世により任命され、その後長い間にケベックを支配してきました。ラバルはモンモランシ―ファミリーの一員で、あの時代で最も影響のある人の一人でした。
ラバルにとって、宣教師となって旅をしながら福音を人々に伝えることが夢でした。彼はアジアに行きたかったが、植民地教会形勢が益々緊張になった時、彼はヌーヴェルフランスの主教に任命されました。ヌーヴェルフランスは成立以来の50年間に主教はいなかったので、信仰問題は地方で管理することになり、人々は信仰によって混乱することがありました。ラバル赴任したとたん、当地の知事と沢山のことについて対立しました。特にセレモニーと規則の問題です。中には一番問題になるのがお酒の売買についてです。酔った人は植民地に危険を齎す迷惑だと、ラバルは信じていました。彼が到着してからアルコール売買を行う人を教会から除名するというルールを立てましたが、知事はそれに強く反対しました。結果、知事は辞職し、二代目の知事がやってきました。しかし、二回目の知事も同じくラバルに反発し、お酒の交易に支持しました。ラバルは除名はもうすでに慈悲深いやり方と信じ、二代目知事のことを1662年8月、わざわざフランスまで行き、この件をルイ14世に報告しました。結果、ラバルは勝ち、二代目の知事は翌年に解任され、フランスに戻されたのです。フランスから帰ったラバルはもっとパワフルになり、新しい知事を選ぶ権利も与えられました。彼が選んだ知事が死んでから、政府がリニューアルを行い、タロンも加えました。その後、ラバルは政治的なかかわりがすくなくなって、宗教に専念することになりました。
ラバルは恐らくヌーヴェルフランスに最も力のある主教でした。彼の夢はカトリック教会を広がるだけでなく、教会の後継者の育つこともその夢の一つです。1663年3月25日、グランド・セミナーがケベックで設立されました。これはセミナー・ケベックの始まりでした。セミナーのメイン目的は新しい宣教師と牧師を育つことでした。オーペンした時に、講師が少ないため、8人のフランス人と6人のインディアン人だけが参加しに来たんですが、その後沢山の宣教師がこの植民地に来て、ラバルの「宣教師によって宗教の慈悲と愛が広がられる」ということが実現できました。その後、ラバルは各教区に訪問する日々を送り、自分の健康問題に気づき、もう長く職務を務めることができないと判断し、1688年に主教の位をジャン・バティスト・デ・ラ・クロワ・ド・シェイリエール・ド・サン=バリエ(Jean-Baptiste de la Croix de Chevrière de St. Vallier)に譲りました。ラバルは1708年5月に他界に行き、遺体は棺に入れられ、聖堂の地下に埋められたのです。



(Basilique-cathédrale Notre-Dame de Québec)

ノートルダム聖堂(Notre-Dame Roman Catholic Cathedral)
ヌーヴェルフランスの歴史と長くそして深くつながっているノートルダム聖堂は1989年にカナダの国立史跡になりました。ノートルダム聖堂の存在はケベックの教会建築に大きな影響を与えました。4人のヌーベルフランス支配者と主教がこの地下に眠っています、ケベックの初めての主教フランソワもこの中の一員です。
住所:16, rue de Buade, Quebec City, Quebec, G1R 4A1
公式サイト:https://www.notre-dame-de-quebec.org/

引用1の参考資料:K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.

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