【MultiCulture】歴史を歩む8

Chapter 8

連合法による植民地統一

カナダの反乱が収まっていた時に、アメリカと違う解決策が必要だと、イギリスは思いました。反乱は完全に鎮圧されましたが、国内は不安定な要素がまたまた沢山残っていました。その時に、初代ダラム伯のジョン・ラムトンが任命されたのです。

ダラムは英領北アメリカ植民地の徹底的な調査に最適な人選でした。彼は1832年の選挙法改正法案の通過に重要な役割を果たし、神保的な自由主義者そして「急進派ジャック」という仇名を頂戴していました。彼の調査によると、フランス系カナダ人が議会多数派を奪う危険性を認識し、カナダ反乱に参加したもの(リーダー二人を除いて)に寛大処理をしました。この件でイギリスの政敵から鋭い攻撃を受け、最後には辞任することになりました。

彼が辞任する前に調査を行い、優れた調査書を完成しました。それだけでなく、彼はフランス系カナダ人を鎮撫し、外交でアメリカとの国境付近の状況を改善し、1840年代2つの重要な国境協定が結ばれることになりました。

ダラムの報告書はフランス系カナダ人の民族意識が深まると信じ、人種的偏見から他民族になる自由な結合への道を開いたのです。

……その人種的偏見に基づいてダラムは政治上の結論を導き出した。すなわち、後進的なフランス人には責任内閣制は任せられないという判断に立って、アッパーカナダとロワーカナダの統一を提唱したのである。「今後は、イギリスの法律と言語を持ったイギリス人社会を確立し……圧倒的にイギリス人から成る立法府以外んいは何者にも政治を任せないこと、それがイギリス政府の第一の確固たる目的でなくてはならない」と彼は断言した。つまり彼は、セントローレンス地方の経済に政治的統一を与え、フランス人をイギリスかするというモントリール在住イギリス人の積年の目的と同じ勧告をしたのであった。【K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.】

……連理と自由を確固たるものとし、アッパー・カナダ、ロワー・カナダ領植民地のあらゆる階級の女王の臣民の利益を促すよう、同植民地のよき統治のための規定をもうけることが必要であるとかんがみて。さらに、この目的にむかって、行政府と立法府の効果を上げるため、前記の植民地を再統合して一つの植民地とすることが適当であるとかんがみて。……女王が、枢密院の助言を得て、以下のことを布令によって宣誓すること、すなわち、前記のアッパー・カナダ及びロワー・カナダの両植民地総督に宣誓する権限を与えることは、法にかなうものである。前記の植民地は、この布令が定められたのちのしかるべき日から、すなわち、この法律が(イギリス議会で)可決した時から15か月いないに、カナダ植民地という名称で一つの植民地となる……。

(The Act of Union of Upper and Lower Canada, 1840.細川道久訳)
【(1997)「史料が語るカナダ」,日本カナダ学会編】

1840年7月、イギリス議会は連合法案を通過し、1841年2月に発効しました。連合法の制定により、セントローレンス川、つまり五大湖地域に、カナダイーストとカナダウェストから成る一つの植民地が成立し、それぞれの地域から同数の代議員を選出して立法議会を設けることになりました。新しく統一された植民地に、このように二つの旧植民地から同数の代議員を選出するという奇妙な規定が設けられたのが、英語系人口のほうがわずかに劣勢で他の方法でフランス系カナダ人が議会を支配していしまうかもしれないという考えからでした。しかし移民の流入に従って、英語系の人口は増加し、西部側には不満が生じ、そして深まっていくことになりました。それ以外、負債の統合、政府の公用語からの仏語排除などの内容がありました。

カナダ・イーストとカナダ・ウエストのそれぞれに改革者たちを中心に連合を結成しました。フランス系カナダ人改革者のラフォンテーヌは統一カナダの組織には不安ではあったが、フランス系カナダ文化の生存は保証されないちうことを認識しました。議会への両地域同数代表制や討議の際のフランス語使用禁止はもともとイギリス政府がスランス系住民を同化するための計画であって、フランス系カナダ人の民族意識を強めたことになりました。さらにフランス系議員は英語系議員より団結が堅かったので、間もなく議会でフランス語の使用が認められました。

改革連合の英語系側は立憲制度に関する目標や、それによって実現するであろう植民地の自律独行の健全な促進を強く望みながらも、同時にそれより幾分幅広い目標をもっています。その中に経済分野におけるファミリーコンパクト偏好の打破や事業機会拡大も含まれていました。カナダの実地の決定的な進展に重要な役割を果たしたのがバゴットという改革派貴族でした。1841年以降、改革連合がはっきりと議会の過半数を占めていました。改革派の現実主義外交によって、フランス系と英語系の文化の間の協力という実験の本当の基礎を築いたのです。「偉大な民主主義は、自治を犠牲にして統一を達成するか、または連邦主義によって自治を維持するか、のいずれかの道を選ばなくてはならない。……一つの国家の中でいくつかの実音族が共存できるかどうかは、その国家における自由の試金石であり、また自由の最善の保障である。」【K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.】


ローワー・カナダとアッパー・カナダの連合が行われ、首都がキングストンに定められたが、フランス系文化を体験したというのがやはりケベックシティに決まっています。ケベックの公用語はフランス語ですが、旅行に行ったら英語のツアーももちろんあります。歴史的な建物も多く、フランス風カナダの生活様式を体験することができます。

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