【MultiCulture】あの土地の先住民たち1

……(オシュラガの住民はカルチエを熱狂的に歓迎する。)そのあとで、九人か十人の男によってこの地域の「王」が運ばれてきた。彼らの言葉で「アグアンナ」と呼ばれるこの王は大きな鹿皮の上に乗っていた。男たちは王を船長のそばのござの上に座らせ、彼らの王であるという仕種を私たちにした。この「アグアンナ」は50歳くらいで、他の者たちと同じような身なりをしていた。ただ、頭の周りに、ハリネズミの毛皮でできた赤い鉢巻きのようなものを、王冠として被っていた。この王は手足が病気で全くの不随であった。かれは船長とその従者たちに、歓迎の意思を明確に示して挨拶をした。そして船長に腕と脚を見せ、治してくれと言わんばかりに、触ってほしいという身振りをした。それで、船長は王の腕と脚を手でこすり始めた。この「アグアンナ」はかぶっていた王冠を外して、船長に与えた。すると船長のところにすぐに大勢の病人が連れられてきた。耳・目・足の不自由な人人、身体不随者、頬まで瞼が垂れている老人などが触ってもらうために船長の側に座らせられ、寝かされた。まるで神が彼らを直すために降りてきたかのように。……
Biggar, H. P., The Voyages of Jacques Cartier, (Ottawa: F. A. Acland, King’s Printer,1924.)小畑精和訳
(1997)「史料が語るカナダ1535-1995」,日本カナダ学会編,有斐閣.

上記の内容はジャック・カルチエの『航海記』(1535)に記録されたヨーロッパ人が最初の頃に先住民と接触した時の光景です。ヨーロッパ人がアメリカ大陸を発見してから、この大陸の歴史がその他の人類に歴史とつながるようになりました。が、その以前、この大陸にも自分の歴史、自分の文化、自分の住民が存在していました。私たちは遠い昔からそこに在住している人たちを先住民と呼びます。その先住民たちはカナダの歴史と深くかかわり、歴史の形成に多大な影響をしました。もちろん、沢山の歴史の本にも彼らの名前を見ることができます。聞いたことのある名前もあり、聞いたことのない名前もあります。彼らは一体どんな人ですか。どんな生活をしていましたか。彼らとヨーロッパ人と間にどんなことがありましたか。彼らは今どういう風に生活しているのでしょうか。知りたくはありませんか。


ワイアンドット族(Wyandot)

またの名はヒューロン族(Huron)、ウェンダット族(Wendat)。北アメリカの先住民族で、イロコイ語族のワイアンドット語を話しました。
初期の学説ではワイアンドット族はセントローレンス川の渓谷に期限があり、モントリオール周辺に存在していたというものもいれば、セントローレンス・イロコイ族に関係があるといおう物もいました。近年の調査によりますと、ワイアンドット族はセントローレンス・イロコイ族には歴史的につながりがあったことが言語学的、考古学的に売らずけられました。
15世紀まで、異文化に触れる前のワイアンドット族は現在のオンタリオ湖の北に暮らしました。その後1615年に初めてフランス人の探検家サミュエル・ド・シャンプレーンと出会いました。
現代のワイアンドット族は17世紀後半にウェンダット連合、タイオノンタッティ族の残存者と合流したことで出現しました。17世紀初め、彼らは「ウェンダット」と自称していました。その言葉の意味は「半島の住人」です。彼らはカナダのオンタリオ州南部、ジョージア湾周辺に暮らしていました。初期の探検家は彼らをヒューロン、またはフレンチ・ヒューロンなどと呼びました。この言葉はイノシシ頭を意味しています。1634年以降、疫病(麻疹、天然痘など)の蔓延によって人口激減し、1649年にニューヨーク州を拠点としていたイロコイ連邦との戦いに負けて、生き残った人たちはミシガン湖の上流側に逃げ、最初はグリーンベイに、次いでマイキリマキノ―に落ち着きました。
1760年9月5日、モントリオールでいグリスの准将ジェームズ・マレーはロレット(Lorette)に住んでいたワイアンドット族の酋長と平和友好条約を結びました。17世紀後半、ヒューロン族とピトゥンが合流し、ワイアンドット族として知られたようになりました。北西インディアン戦争が行われた間、ワイアンドット族はイギリスとともにアメリカとたたかいまして、タルヘ酋長の主導のもと、1795年にグリーンヴィル条約に調印しました。
1840年代、生き残ったワイアンドット族の大半は連邦政府の方針の下、カンザスのインディアン準州へ移住させられました。ワイアンドット族はオハイオ州の土地をもとに受け取った基金を使い、現在のワイアンドット郡を抗ny縫うしました。抗ny縫う下土地は、カンザス川とミズーリ川の合流点付近のほぼ正方形の区画でした。1853年6月、ワイアンドット族の酋長ビッグタートルは、オハイオ・ステート・ジャーナルに部族の最近の情況について手紙を書きました。ワイアンドット族は1845年に土地代として約127000ドルを受け取った。1850年の春に酋長が土地を政府に返還しました。売却代金のうち10万ドルを5%国債に投資しました。カンザスに移動してから、ワイアンドット族は2校の安息日学校と良い図書館を手に入れました。彼らは禁酒運動団体の一派を組織することを進めており、かなり大きな禁酒協会を保持していました。ビッグタートルはワイアンドット族はアーカンソー州より北側のどの部青くよりも倹約していると述べました。彼の記述によれば、ワイアンドット族は「満足しており、幸せ」であり、オハイオ州にいた時よりもいい生活状況を享受していました。
ワイアンドット族はカンザス州の政治において重要な役割を果たしました。1853年7月26日、ウィリアム・ウォーカーはネブラスカ準州の知事に選出されました。ウォーカーはカンザスが大陸横断鉄道のルートとなるように推進しました。オハイオ州に住んでいた最後のワイアンドット族は、ビル・ムース(1836年 – 1937年)であった。1985年2月、連邦政府はワイアンドット族の子孫に550万ドルを支払うことに同意した。
1999年8月27日、ケベック州、カンザス州、オクラホマ州、ミシガン州の広範囲にわたるワイアンドット族のバンドは、彼らの歴史的な故郷であるオンタリオ州ミッドランドで一堂に会しました。彼らはウェンダット連合を正式に再構築をしました。
彼らは他のイロコイ語族の人々と同じように、ワイアンドット族は農耕民族です。狩猟や釣りで食べ物を補っていました。女たちはトウモロコシ、かぼしゃ、豆を耕作し、そして男たちが魚を釣り、鹿などの動物を狩ります。それぞれの家族には自分たちで耕す畑があり、家族が畑を使わなくなったら、その畑は部族の共有資源に戻ります。ワイアンドット族の生活様式は実際には性別によってかなり差があります。男たちの役割はほとんどのハンターとして獲物を探して人々に食べさせ、女は部族において他のすべての役割(服作り、獲物の料理、子供の世話など)を担っていました。
現在のワイアンドット族のグループは(カナダ国内の場合)ウェンデイクにあるヒューロン・ウェンダット・ネーションというファーストネーションだけです。メンバーは約3000人で、カトリックを信仰し、フランス語を第一言語として使っていますが、ワイアンドット語の研究と子供への使用を推進しています。ここ数十年間、彼らの主な収入源は陶器、伝統的な文様のスノーシュー(Snowshoe)、夏用冬用のモカシン、そのほか地域で作られる様々の工芸品などの販売です。

インディアン(Indian)

インディアンはアメリカ先住民の大半を占める主要グループの一般的な呼称です。スペイン語とポルトガル語ではインディオ(indio)です。カナダでは、歴史や文化背景、政策もアメリカ合衆国とは大きく違うことから、呼称についてはアメリカ合衆国とは状況が違っています。現在はイヌイットとメティ(先住民とヨーロッパ人両方の血が引く人々とその子孫)を除く先住民の総称としてファースト・ネーションズという呼称が一般的でありい、ハイダ族、クリーなど個々の部族を指すときに部族名のあとに「ファースト・ネーション」をつけることが多いです。
インディアンと一括りに呼ばれることも多いですが、実際には多くの部族が存在して、また部族に固有文化形態や社会様式を持つことから、様々な時期に様々な経路を通って段階的に渡来した人々の末裔であると考えられています。近代に入るまではインディアン自身はインディアンという統一的な意識はあまりもっていなかったです。それぞれの部族は高い独立性を持ち、互いの部族は友好、あるいは敵対関係にありました。白人はとあるインディアン部族を攻撃する時に、その部族と敵対する別のインディアン部族も白人を攻撃することが歴史上に少なくありません。また、インディアンは白人と比べると極端なほどの個人主義の文化を持っており、白人や他部族との戦争においても参加は個人の自由に任せたことになっておりました。族長であっても、その役割は部族内の争いを穏便に納める調停者であって、命令者ではありませんでした。そのため、他人に何かを強制的にやらせることはありませんでした。ゆえに、多くのインディアン部族が一致団結して白人に立ち向かうということは少なかったです。インディアンの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきましたが、自然崇拝を行い、独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな自然との調和を重視しする成人性に対する評価は近年のアウトドアやエコロジーのブームにのって見直される例が多く、様々な文化媒体にさえ登場しています。
多くのインディアン部族がトウモロコシを主食とし、隠元豆、カボチャ、瓜などを栽培していました。狩猟、漁労、採集と農業を組み合わせる部族も多く、プエブロ(Pueblo)を除けば多くの部族が程度の差はあれ、移動性の生活を送ってきました。プエブロ族はトウモロコシなどの農業のみによって生活し、アドべと呼ばれる集合住宅に定住するという、インディアンとしては珍しい生活方式です。ヨーロッパ人と接触する以前の家畜は七面鳥と犬でした。犬は現在も部族によって儀式などで食材されており、コモン・インディアン・ドッグという犬種が存在しています。北アメリカにはイノシシの一種のぺっかりーや、羊の仲間のビッグホーンなどがいますが、家畜化されなかったです。
毛髪を霊力の源と考え、神聖なものとして非常に大事にしています。また、ヨーロッパ人もかつて行ってきたことでありますが、共通の髪型をすることで部族の帰属を示す手段です。昔の写真に見られるインディアンの髪の毛は非常に美しく長いです。これを習い、ハリウッド映画などでは登場するインディアンの老人も毛髪豊かな人物としてえがかれています。が、英現部族の三つ編み方式を知らなかったために、ウォーボンネットという鷲の羽根を連ねて立てたヘアバンドを身に着けて描かれているものが非常に多いです。同化政策の一環としてインディアン寄宿学校に送られた男女児童は入学と同時に髪の毛を短く切られました。都市に住むインディアンの間では、白人文化に同化して短髪が多いものの、近年は長髪が復活しています。
インディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持っていなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、倒れます。インディアンの人口が激減し、インディアン社会は深刻な打撃を受けたことになりました。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンにパニックに陥り、たった数十人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていました。17世紀の前半から18世紀までの長い闘争の歴史を一括りにして、インディアン戦争と呼びます。19世紀になると、「インディアン強制移住法」を制定したアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson,第七代アメリカ合衆国大統領)大統領によって、「保留地制度に基づく強制移住うに従わないインディアン部族は絶滅させる」という「インディアン滅絶政策」が推し進められました。2これはユリシーズ・グラント大統領(Ulysses S. Grant, アメリカ合衆国第18代大統領)、ウィリアム・ジャーマン将軍(William Tecumseh Sherman, アメリカ合衆国軍人)らによってさらに強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大しました。う南東部での「セミノール戦争」は白人とインディアンの国家間戦争としては最大級なもので、ジャクソンはこの戦いに焦土作戦による徹底殲滅を図りました。「セミノール戦争」は現在、「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれています。
1961年、シカゴで大学教育を受けた若いせだいを中心に「全米インディアン若者会議(NIYC/The National Indian Youth Council)」が結成されました。彼らは「若い世代は声を上げるべきだ」と唱え、「インディアン人権宣言」を起草し発表しました。これは「AIM」の全身ともいうべき組織であり、指導者達は後にAIMに合流しました。1968年7月29日にアメリカ・インディアン運動(AIM/American Indian Movement)が創設され、メディアに訴えかけ、様々な組織と共闘と支援を行いました。様々の抗議運動のあと、現在では一定の保護政策とそれによる社会保障制度がとられているが、いったん破壊された民族アイデンティティの修復は難しく、生きる目的を喪失してアルコールやキャンブルに耽溺するケースが見られるなど、深刻な社会崩壊現象も見られます。
現代社会では、インディアンの社会的平等の実現が難しいと言われますが、これのために努力し続けている人も少なくないです。

<続く>

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