- Home
- 【Multiculture】歴史を歩む, カナダを知る
- 【MultiCulture】歴史を歩む5
【MultiCulture】歴史を歩む5
- 2017/10/23
- 【Multiculture】歴史を歩む, カナダを知る
Chapter 5
ガイ・カールトンとケベック法
1763年以降、ケベックまでやってきたイギリス人というのは大部分イギリス、、スコットランド、オルバニーの商人でした。最初の数年間に200家族ほどやってきて、忽ちケベックの経済を支配するようになりました。初代総督ジェームズ・マレー(MURRAY, JAMES)は、予想された通り緊張が高まるのを見るにつけ、ケベックを国教徒化せよという指令の履行を次第に断固として拒否するようになりました。英語系商人の飽くことない要求にいらだちを感じたマレーはフランス系住民の領主制田園生活や比較的教養のある聖職者や知識人らの指導者層に一層同情的になりました。
しかしイギリス本国の商人たちが望んでいたもの、つまり宗教上の理由でフランス系カナダ人を参議会と立法会から締め出すこと及びイギリスの普遍法の確立を、彼らに約束していたのである。その故、彼らはロンドンに請願してマレーをイギリス本国に召還させました。
マレーが知事職をイギリスに帰った後、カールトンは1768年4月12日に総司令官と知事に指名され、11月1日に就任しました。
サー・ガイ・カールトン(Guy Carleton)、この初代ドーチェスター男爵ガイ・カールトン(1st Baron Dorchester)として知られている人は、アイルランド系イギリス人の軍人でした。彼は1768年から1778年までに2度にわたってケベック植民地の知事を務め、この間と1785年から1795年にイギリス領北アメリカ総督を務めていました。
しかし、商人たちはマレー以上にカールトンに失望しました。アイルランド系の貴族で職業軍人であったカールトンは秩序と権威を心から信奉していました。従って、彼はマレーと同じように、フランス系カナダ人にとって排他的な議会を召集することによって、彼らの社会秩序を動揺させるようなことははっきり拒絶しました。そして彼はマレーの取った婉曲な措置を支持し、イギリスの法の規定に反してカナダの教会における司教制度の継承を保証しました。さらに、彼は封建的領主制度による土地の下賜を許容し、商業上の裁判事件に関してはパリ習慣法の提要を認めました。二人の総督は当時のフランス系カナダ人にとって征服者のように見えなかったです。
カナダは最後までフランス系のままで残る運命になるとの確信を次第に深めていたカールトンは、ほどなくケベックの英語系商人に対する嫌悪感とは別に、フランス系カナダ人に対して懐柔政策をとらなければならない理由は、彼はケベックの権威主義的な社会構造こそ、北アメリカにおけるイギリス勢力の頼みの網であると考えていました。13植民地の生意気な商人たちが自治を要求して長期にわたる騒ぎを起こし始めたのを見て、軍人気質のカールトンはそのような確固たる支えが絶対必要であると感じました。1765年から1770年にかけて、植民地の商人の挑戦とそれに対する本国の重商主義者の反応が繰り返し危機をもたらすにつれ、カールトンは、通商法と航海法を強化し、13植民地ないでの歳入を増やそうとするロンドン側に試みは力によって帝国の権威の維持を終わらせるような事態を招くことがわかりました。彼はもしフランス系カナダ人が忠誠であれば約18000の兵を集めることができると悟り、彼らの忠誠心を確保する方法は何かを考えました。
K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.
計画は単純で、貴族らしい社会分析に基づいたものでした。彼はイギリス政府に提案して、沢山の反対にあったが、最後には他の妥協案も多数提案された後、カールトンの案をすべて立法化され、1774年ケベック法(Quebec Act )として議会を通過しました。
1775年5月1日、ケベック法は正式に発効しました。
ケベック法の主な構成要素は
1 現在のオンタリオ州、イリノイ州、インデアンナ州、ミシガン州、オハイオ州、ウィスコンシン州、とミネソタ州を含むインディアン居留地の一部を買収することで実現される領域の拡大。
2 プロテスタントの咽喉に対する言及は市内という誓約。
3 カトリック信仰と自由な行動の保証。
4 刑事告発を含む行政のためにイギリスの普遍法が発動される期間に民事裁判を実行する際、フランス民法の使用の承認。
カールトンはこの法で数々の矛盾点を落ち着いたのです。
ケベック法は1763年以降廃止されていた私法における元来のフランス流の慣習を回復し、公共機関の職員にカトリックの信仰を許可しました。それは、「国王至上の誓い」の対象がエリザベス1世とその後継者からプロテスタント信仰に対する言及をしていないジョージ3世に変わったことを意味しています。つまり、イギリスの植民地になった時からフランス系カナダ人は植民地政府の業務にさんかすることができたということです。しかしながら、選挙によって選ばれた立法府は存在しなかったです。行政区は、指定された知事と立法審議会によって支配されることになっていました。この結果、アメリカの革命家たちはアメリカ独立革命の間カナダ人から援助を得ることに失敗しています。最終的に、ミシシッピ川東部とオハイオ川北部はケベックに編入されました。
ケベック法の影響は沢山あります。
領域的に言いますと、ケベックはミシシッピ川上流とオハイオ川方面つまり西方へと拡大されました。ケベック州は現在、元の大きさの約三倍となっています。
政治から言いますと、カトリック教徒は現在、常設の期間で承認されているが選挙によって選ばれた立法府存在しなかったです。行政区は指定された知事と立法審議会によって支配されることになっています。
法律の面、伝統的なフランスの私法が回復されました。
宗教の面、十分の一税を徴収することができました。また、追放されたイエズス会の宣教師たちはケベックの地に戻ってくることが許されました。
そして、郡区制よりむしろ荘園制が復活していました。
ケベック法がカナダ人の忠誠をイギリスに保障するために大きな役割を果たしたのは明確でしたが、予期せぬ結果もありました。アメリカの入植者に「耐え難き諸法」の一つと位置づけられ、アメリカ独立革命を起こさせてしまったということになりました。
アメリカの入植者たちはまたケベック法の条項に一定の関連をもっていました。一つはオハイオ居住者が自由にカトリックを信仰することができるようになったということです。ヴァージニアからの移住者とほかの植民地は既にその効果範囲に入っていました。土地開発を行う企業は先住民をつい追放し土地を利用するために既に組織されていました。ジョージ・ワシントンやダニエル・ブーンといったアメリカ独立革命の指導者が、1763年宣言などの条約で認められたインディアンなどとともにイギリスの条約、法律などに縛られない政府を確立することで胃液を得た真の土地の投機者でした。アメリカ人はカトリック信仰を奨励し、自由を権利を与える条項の存在するケベック法を非難しました。特に、ニューヨークやペンシルベニア、バージニアの植民地政府はオハイオ川地域はケベックに帰属する、そして自分たちへのいかなる特権も認められないという条項に怒りを募らせたということでした。
カールトン(Carleton University)
ガイ・カールトンの功績を記念するため、彼の名前で命名した公立大学で、人類学や国際ビジネスなどの分野が強く、国際関係の教育実績も有名です。
住所: 1125 COLONEL BY DRIVE, OTTAWA, ON K1S 5B6
公式サイト:https://carleton.ca/
カールトン郡(Carleton County)
オンタリオにあり。ガイ・カールトンの名前で命名した町です。
公式サイト:http://carletonlandowners.com/wp/