【MultiCulture】歴史を歩む7

Chapter 7

二つの植民地、二つの反乱

1783年戦争が終わりアメリカ合衆国が成立しました。するとアメリカのロイアリストは国内に残ることを嫌い、ノヴァスコシアやケベック東部に移住してきました。プリンスエドワード島の地主は開墾すれば土地を与えると約束して彼らを誘致したが、農場ができてから反故に下ので以来70年以上も紛争が続きました。ノヴァスコシアに移住したアメリカ人は35000人と見られ、新たにニューブランズウィック植民地が設置されました。オンタリオ湖西方のセントローレンス川上流部には約5000人が移住しました。

1791年12月26日、イギリス議会により立憲条例(Constitutional Act, カナダ法とも呼ばれている)が決定されました。フランス色の濃いケベックはイギリス住民が増加した結果、自由な土地所有制度や経済活動を望むイギリス系と封建的な荘園制を好み、ケベック法で守られた宗教、言語、法律的習慣を固守するフランス系住民と対立になり、イギリス政府は立憲条例を発布することでこの対立を緩和しようとしました。

立憲条例は住民の民族的な分布に従って、オタワ川の西部がアッパーカナダ(Upper Canada, 現オンタリオ州)、東部はローアーカナダ(Lower Canada, 現ケベック州)と分割し、それぞれ政府を設置しました。

アッパーカナダではイギリスのコモン・ローと自由な土地所有制度が確立されたが、立憲条約によって政治社会構造は両地域とも極めて反動的なものでした。両カナダにおける世襲制貴族の許可に関する条項は全く手を付けられずにそのまま残されました。「プロテスタント教会」の建設のためと称して広大な公的保留地が確保され、もうおひとつの広い国王の保留地として設けられました。そして立法参議会と民選の立法議会が共有するように定めたのです。フランス系カナダ人のカトリック教徒も議員に関する選挙、被選挙権を与えられた。彼らはすぐにイギリスの法律と制度を尊重するようになり、急速に同化されました。その上、彼らは選挙制度に不慣れであるから議会では多分あまり影響力を持たなかったです。

「こうして1791年までに英領北アメリカは、種々の立憲制度の奇妙な寄せ集めになっていた。ニューファンドランドはセントローレンス湾の中のイギリス王室の直轄植民地、プリンスエドワード島、ノヴァスコシア、ニューブランズウィックは一院制の選挙制議会を備えた王党派植民地、ケープブレトン島は任命制参議会政府を維持、アッパーカナダとローアーカナダは先に見たカナダ法によって成立、何本もの川がハドソン湾に流れ込む西部のルパート地方は特許会社の所有地、そして遥か北西の太平洋、北極海側はイギリスが領有権を主張しているが政治制度も明確な南境界線も定まっていない地域、という具合であった。そこで将来のカナダの形成には、その経済発展、地理的条件、アメリカ合衆国の拡張、そしてイギリスの植民地政策とが互いに絡まりあった決定要因として作用することになる。」

K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.


最も新しい植民地のアッパーカナダはこの時代は急速な発展と用心深い野心の時代でいあった。初代総督ジョン・グレイブス・シムコー(John Graves Simcoe)の下で、1791年に14000出会った人工は1812年には90000に増加した。新しい住民の大部分はアメリカ合衆国のフロンティアの西漸による移住者で、彼らが移ってきたのはただ単に彼らの行く手にアッパーカナダを乱したというだけのことであった。シムコーがアメリカ協和主義に対して深い嫌悪感を抱いていたにもかかわらず彼らを歓迎したのは、人口増加だけが、アッパーカナダのアメリカへの併合を回避しうる唯一の確実な手段であると考えたからであった……彼は想像力に富み、優れら組織力も持ち合わせていた。そこで新しい移住者が一度忠誠を誓えば、彼は、一番最初にカナダにやってきた王党派に与えられたと同様に無償の土地を彼らに払い下げることを約束した……

K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.

1812年英米戦争が始まり、アッパーカナダ領内で戦われた戦闘は数回ありました。

・クィーンストン・ハイツの戦い(Battle of Queenston Heights
・ヨークの焼き討ち(Battle of York
・ジョージ砦(Battle of Fort George
・ストーニー・クリークの戦い(Battle of Stoney Creek
・ビーバー・ダムズの戦い(Battle of Beaver Dams
・エリー湖の湖上戦(Battle of Lake Erie
・テムズの戦い(Battle of Moraviantown
・クライスラー農園の戦い(Battle of crysler’s Farm
・ニューアーク焼き討ち(Capture of Fort Niagara
・チッパワの戦い(Battle of Chippawa
・ランディーズ・レーンの戦い(Battle of Lundy’s Lane

1793年にはアレグサンダー・マッケンジー(Sir Alexander MacKenzie)がロッキー山脈を越えてフレーザー川流域に達する大陸横断に成功し、英領カナダの領域は西方にも拡大していました。ナポレオン戦争期に欧州での毛皮需要が低落し、ハドソン湾会社と北西会社が生き残りをかけて競争をしました。1812年英米戦争が勃発するとカナダは再びアメリカ軍の占領の脅威を行けたガ、アッパーカナダにおける米軍の侵攻は撃退されました。1817年にモントリオール銀行が設立されました。1821年にハドソン湾会社と北西会社は合併尾しました。ジョージ・シンプソン(George Simpson)が北米部門の最高責任者となりました。

アッパーカナダ人の多くはモントリオールの通商の独占に寄与することに好悪教法のそう反する感情を抱いていたが、財政的・政治的にも彼らにはモントリオールの独占に手を貸すことを躊躇する理由があった。というのは、アッパーカナダ議会が関税を付け加えたからである。その上、1822年までに両地域が協議して定めていた関税収入の配分は、ほとんどのアッパーカナダ人にとって非常に不満なものであった。アッパーカナダは輸入に大きく依存しているにもかかわらず、関税収入の五分の一しか与えられなかったである。この結果、「国内交通の改良」への政府支出によって、アッパーカナダの負債は急激に増加した。これら交通、財政、政治的摩擦の問題を解決する一つの方法は、二つの植民地を合併することにあったと思われるが、まさにこのころを目指した1822年の連合法案は、総合の民族的不信感から失敗に終わるのである。

K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.

1820年代以降、アッパーカナダは政治勢力が保守派と改革派に分極化しまして、保守派は初期入植者とロイやリストを軸にファミリーコンパクトと呼ばれる門閥を形成しました。改革派のリーダーはジャックソニアン・デモクラシーに影響されたウィリアム・ライアン・マッケンジー(William Lyon Mackenzie)でした。マッケンジーはトロントの初めての市長であり、アッパーカナダ改革派のリーダーとして知られています。1824年、マッケンジーは編集長として『コロニアル・アドボケ―ト(Colonial Advocate)』を発行しました。この新聞は政治記事週刊で、アッパーカナダ第九回議会選挙に影響を与えたました。28年に立法議会議員に選出されて政界に入りました。過激な主張で議会からの追放され、再選を繰り返しましたが、人気ある政治家として35年には初代トロント市長となりました。
1837年11月15日、マッケンジーは彼の憲法草稿を発表しました。11月27日、作ったハンドビル「独立!(Independence!)」を町中で配り、11月29日に、憲法条約を12月21日公開すると宣言をしました。ただし、彼らが反乱を起こす計画が拡散され、計画の12月7日になってもマッケンジーは決行を躊躇しました。その後小規模の戦いが行いましたが、技術も装備も劣っていることと兵力分散によって敗北になりました。

アッパーカナダ反乱はローアーカナダ反乱と比べると短く、そして組織性がよくなかったっです。始まったばっかりの時に大きな打撃を受けましたが、残存な抵抗勢力は1838年まで残っていました。

マッケンジーの一派の間でも、計画は上出来ではなかったが、マッケンジーの決意は強く、前途洋々たる文章を発行し、トロントの北にある居酒屋で農民や職人など熱心な人たちを招集しましたが、たった一度の主な交戦で反乱軍は追い散らされました。マッケンジー自身は高い懸賞金のかかった身で農園から農園へと逃げ伸びて、ついにアメリカ合衆国へ逃亡しました。


ローアーカナダの社会的対立の基礎は複雑で、若い法律家や小商人たの指導の下にほとんど全教区の司祭の支持を得て、オーアーカナダの民衆は選挙制議会を把握していました。彼らは歳入の基盤を商業税から土地税へ移そうとする行政府の試みに反対して成功をおさめ、パリ習慣法に変えてイギリス商法を導入しようとするう圧力に抵抗し、フランス的残存的哲学を打ち立てたのでした。1791年立憲条例で定められら自由土地所有選択権によってイースタン・タウンシップス(モントリオールの東)に土地を取得して定着したことを激怒して、民族主義的な新年を広める手段として『ル・カナディアン』紙を創刊しました。

「われわれの言語、われわれの制度、われわれの法律」と標語を掲げたはケベックの民族主義確立の機関紙であった。【K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.】

思想、感情そして野心の混合体になった彼らの民族主義は真の目標は正確に定義することができません。この点に関しては、ほとんど全ての植民地で生まれた民族主義はこうでした。1807年から1811年の間に、総督のクレイグはフランス人を同化させる方針を全面的に支持し、商人階級の要求に応えるために議会の解散やフランス系民兵軍将を面ショック、『ル・カナディアン』紙の抑圧、同紙の所有者を投獄などの手段を使ってフランス系カナダ人を抑制しようとしていました。これを当たり前のように騒乱を起こし、総督は召還され、スイス系の元ニューヨーク人サー・ジョージ・プレボ将軍が新しい総督として任命され、フランス人同化運動が中止になりました。しかし、内部の危機は解決でできず、ますます悪化するようになりました。

1815年からルイ・ジョゼフ・パピノー(Louis-Joseph Papineau)がローアーカナダ立法議会の議長でした。1834年にパピノーら率いる愛国者党が財政問題もめぐり、議会の権限強化を求める92か条の法案を可決しました。1836年カナダ最初の鉄道がモントリオールとリシュリュー川をつなぎました。この年、アッパーカナダ議会が財政問題を追及されたフランシス・ボンド・ヘッド(Francis Bond Head)が議会を解散、選挙に介入し保守派を勝たせました。ヴィクトリア女王(Victoria)が即位した1837年3月、イギリス本国がローアーカナダの可決した92か条を完全却下しました。また総督が超然として課税収入から行政費を支出できることにしたので、愛国者党がアッパーカナダの改革派を巻き込んで翻刻製品をボイコットしたり、軍事行動に出たりしました。結局パピノーとマッケンジーは合衆国へ逃亡しました。1838年、初代ダラム伯爵が総督となり、反乱鎮圧まで市民の自由を制限する権利がローアーカナダの特別評議会に与えられました。鎮圧後、漁かなダの囚人がオーストラリアへ送られました。この中にはダラム伯爵が本国の意に反して死刑にしなかったものがおり、伯爵は追認が得られなかったことを理由に辞表を提出しました。1839年2月に報告書も提出し、反乱を国民同士の対立と分析したうえで内政を責任政府へ委ねるべきと主張しまし板。1840年英国政府は「ダラム報告書」を却下し、翌年に合同法を制定しました。アッパーカナダとローアーカナダが中央政府の管理下に置かれました。その後、アッパーカナダはウェストに、ローアーカナダはイーストと呼ばれるようになりました。


マッケンジー・ハウス(Mackenzie House

トロント市の初代市長を務めたウイリアム・リヨン・マッケンジーの元邸宅。現在は総合博物館になったこの建物は単なる名人の旧居として見られているのではなく、建築的、そして歴史的意味があり、周りの景色がどんなに変わっても、マッケンジー・ハウスはなお19世紀の姿で、ボンドストリート地域の数少ない歴史的な建物の一つになっております。現在はトロント市文化サービスとして運営されています。
住所:82 Bond St., Toronto, ON M5B 1X2
公式サイト:https://www1.toronto.ca/wps/portal/contentonly?vgnextoid=f1a7ec09cd61c510VgnVCM10000071d60f89RCRD

ジョージ砦(Fort George National Historic Site

ナイアガラ・フォールズから22kmだけの距離でジョージ砦があります。ジョージ砦の戦いの場所で、現在カナダの国定歴史場所の一つになっております。1812年戦争で壊れた部分もあるので、戦争後残された石や材料で当時の風貌を再現しております。
住所:51 Queens Parade, Niagara-on-the-Lake ON L0S 1J0
公式サイト:http://www.pc.gc.ca/en/lhn-nhs/on/fortgeorge

エリー湖(Lake Erie)
 エリー湖の湖上戦の場所でしたが、現在は綺麗な旅行スポットです。北アメリカにある五大湖のうちの1つで、世界では13番目の面積をもつ淡水湖です。湖中には島が多数あり、周りには沢山の公園や葡萄園があります。船で湖上で景色を見るのもよい選択の一つと思われます。
住所:42.2°N 81.2°W
情報サイト:https://en.wikipedia.org/wiki/Lake_Erie#Tourism
 

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