【MultiCulture】歴史を歩む9

Chapter 9

自治領カナダ

カナダは統一の植民地になりましたが、内部には解決してなかったことが沢山残っています。1846年までに統一カナダの政治は行き詰まっており、人種的、宗教的、そして地域的な対立があらゆる問題を齎したことになり、改革派がそれによって分裂し始めたのです。カナダ・ウエストの改革者たちは人口比例による代表制を求めていて、英語系住民た多いため、「人口比例代表制」の要求はフランス系カナダ人の心に深い恐怖感を呼び起こしました。住民の多数がまた改革党より保守党を支持することになり、その後保守党はとうとうカナダの第二大政党まで成長する事が出来ました。

この保守党は若い法律家ジョン・A・マクドナルド(John Alexander Macdonald)が率いる党です。「魅力的な人柄に加えて政治的え才能も備えていたマクドナルドは、英語系カナダ実業界の経済的野心だけでなく、フランス系カナダ人の民族主義の根本にある補修性もよく理解していた。こうして彼は、1854年から1891年に没するまで、カナダの政治を支配することができたのであった。彼の成功の大きな原因は、改革派からの主な批判に巧みに譲歩したことにあるが、この事実も彼の業績に対する評価を下げるものではない。」【K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.】

「もしロワーカナダのイギリス人が征服を望むなら、彼は『負けるが勝ち』でいかねばならない。彼はフランス人と友人にならなくてはならない――自分の民族や血統を犠牲にせよというのではないが、フランス人の民族性も尊敬しなくてはならない。彼らを一国家として扱いたまえ。そうすれば彼らはふつう自由な国民がふるまうように――つまり寛大に――振る舞うであろう……。現在唯一の危険は、人口比例代表制の叫びである。……半島(トロントからサーニアまでの地域)が船の舵を握ってはならない。そこはヤンキーとスコットランド宗教改革党員、つまり実際に最も不安定で危険な人州で占められているのである。」
このようになマクドナルドは、単純多数決による民主主義を否定したのであるが、そこには彼の本質的保守主義ばかりでなく、カナダという異民族共存国家の実験を価値あるものにするという、一つの本質的な要素を彼が早くから理解していたことが示されている。

【K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.】

このような政治家マクドナルドと政治的に協力し合っていくのが外交手段のある同僚ジョルジュ・エティエンヌ・カルティエ(George-Etienne Cartier)でした。カルティエは北アメリカにおけるフランス系カナダ民族の存続は英語系同胞との政治的連携のいかんによると考えていました。フランス系カナダ人側は大規模な商業・運輸計画を促進するための法案を通し、そして英語系カナダ人はフランス系カナダ人の文化的アイデンティティを支持する政策を受け入れることをしました。カルティエの新年はカナダ・イーストのカトリック教会からも全面的な支持を得ました。

1854年、マクドナルド=カルティエ政府が政権の座に着きました。彼らが沢山の問題を解決しました。中には、聖職者保留地の問題とカナダ・イーストの領主制土地所有制度を廃止などが含まれていました。が、他の問題も多かったため、地域的対立が次第に深まり、政治が行き詰まっていました。

1858年、マクドナルド=カルティエ政府が統一カナダの首都をどこに定める問題で敗北になりまして、ヴィクトリア女王にこのことを一任しました。「ヴィクトリア女王は、両地方の境界となって入りうオタワ川のカナダ西部側にある小さな材木業の町、オタワを選定し、妥協的解決とした。議会がその選定を拒否した時、マクドナルド=カルティエ政権に代わってブラウンとパルティ・ルージュの指導者ドリオンが内閣を組織したが、その政府はたった二日間の命であった。結局、首都はオタワと決めったが、それから先数年間政府は絶え間なく危機に見舞われ、短命な政権が続いた。」【K・マクノート(1977)「カナダの歴史」,ミネルヴァ書房.】

1862年から1864年の間、アメリカ合衆国の侵略がありまして、イギリス政府はモントリオールイ以西の領土防衛は実行不可能だと言明し、「防衛に関するカナダの無為は、既存の立憲制度の全面的崩壊を象徴しているように」思われました。この時、イギリス人はカナダ西部の農業、商業利益のために西部大草原地方を獲得するためには西部への拡張を望んでいました。フランス系カナダ人は沿海に住む人が多く、西部拡張に「冷淡」でした。カルティエがその「魅力と政治手腕」によって、連邦政府を建立と西部拡張の二重計画が生存のために必須であること、フランス人も西部開拓から恩恵を享受できることを信じされました。

1864年6月、改革派のジョージ・ブラウン(George Brown)が連立政府を提案しまして、マクドナルド=カルティエ政府がそれを受け入れました。同年9月、シャーロットタウン会議が開かれ、植民地が連合できるかどうかについて論議が行っていました。本国政府により支持され、当地住民も乗り気でした。連合賛成者の主な関心事はアメリカ政府が敵意ある行動をした場合、沿海地方の安寧を守ることでした。

1864年10月4日、カナダ連邦結成のためのケベック会議が開かれました。カナダ、ニューファンドランド、ノヴァスコシア、プリンスエドワード島、ニューブランズウィックから来た代議員たちが参加しまして、中央権利対州権利、文化的な違いを残し、地方利益などの問題について徹底的に論議をしました。「英領北アメリカ食kミンチの最大の利益と現在および将来の繁栄は、イギリス王位の下での連邦によって促進されるであろう。ただし、この連邦の原則が諸植民地に適切に適用されつことを条件とする。」(The Quebec Resolution, October 1864. 細川道久訳【(1997)「史料が語るカナダ」,日本カナダ学会編】

1867年起草そして公開した英領北アメリカ法(BNA法)がカナダ連邦の基本法として機能することになりました。カナダ側が考えた最初の連邦決議書草案では、新国家の名称は「カナダ王国(Kingdom of Canada)」でしたが、アメリカ人の感情を傷つてもいけないという判断から「自治領」という名称に変更しました。カナダ立法府で長期にわたって行われた議論の中で出されたいくつかの特定の声明に基づいている契約理論により、建国に携わった両協力者が平等である概念は顕著になってきました。植民地を連邦制をとり、沿海地方も連邦に加入することになりました。


ジョン・A・マクドナルド(John Alexander Macdonald

所属政党は保守党で、カナダの初代及び第三代首相として知られています。1815年1月11日にイギリス・スコットランドの商人家で生まれ、1820年にアッパー・カナダのキングストンに移民しました。1834年に弁護士として開業し、その後すぐに連合カナダ議員として選ばれました。1847年には当時の政権に入り、1854年自由保守党設立、新政権誕生に寄与し、司法長官に任命されました。しばしば首相よりもりーたーシップを発揮する事も多かったです。その後選挙でケベック州のエティエン・パスカル・タッシェとともに1856年から1857年の「連合カナダ共同首相」(Joint Premier of the Province of Canada)に選出されまあした。タッシェはその後辞職し、ジョルジュ・エティエンヌ・カルティエに引き継がれたのです。このマクドナルド=カルティエ政権は1858年の選挙で敗北し下野したが、当時のカナダ総督がカルティエを上級首相に任命したので、カルティエはマクドナルドともに共同上級首相となりました。マクドナルドがカナダ内の植民地間の通信制度及び超級り鉄道の敷設に尽力しました。この共同政権は1862年に再び選挙で敗北、下野し、マクドナルドは野党のリーダーとして務めていました。

この時期になるとマクドナルドはこの地域の将来にめを向けるようになりました。イギリス最大いの植民地の政治的なリーダーとしてその他の英領植民地との交流や連合などの力も発揮してくるようになっていました。南に国境を接するアメリカからの攻撃に備える意味もあり、西部の植民地とともに共存する政治的安定基盤を確保する必要がありました。カナダ植民地の政治的不安定さを避けるため、1864年にマクドナルドの保守党とジョージ・ブラウンが率いる改革党がマクドナルドのもとに「大連合」をしました。マクドナルドは北米のイギリス植民地を「カナダ」に連合する働きかけを続け、1864年9月にプリンスエドワード島のシャーロットタウンで東部のみで連立しようとしていた東部大西洋地域の植民地代表に提案しました。1864年10月にはケベックシティにてカナダ聯合への計画を採択されました。1866年までにはブランズウィック、ノヴァスコシアが連合に合意しまして、ニューファンドランドとプリンスエドワード島が反対しましたが、最終的に合意になりました。これに基づきイギリス議会は英領北アメリカ法を制定し、連邦制をとる一つの植民地「カナダ自治領(Dominion of Canada)」を形成することを決定しました。この法律は「1867年カナダ憲法」として現在でも効力を持っています。

以降、マクドナルドは連邦結成の父の一人とされるようになりました。ヴィクトリア女王は連邦形成の貢献者として、自治領成立の1867年7月1日に「聖マイケル・聖ジョージ勲章」をマクドナルドに授与しました。また同年8月の選挙でマクドナルドが率いる保守党が政権を取り、カナダの初代首相になりました。

1887年にカナダで前身となる「マニュファクチャラーズ・ライフ・インシュアランス・カンパニー」が創立され、カナダ初代首相を退任後、社会保障を補う目的で民間の生命保険会社の設立趣旨に賛同し同社の初代社長に就任して営業を始めました。これが現在のカナダに大手金融機関マニュライフ・ファイナンシャルとなっています。

マクドナルドは現在カナダドルの10ドル紙幣に印刷され、また高速道路、橋、空港、学校などが彼にちなんで名付けられています。

ジョルジュ・エティエンヌ・カルティエ(George-Etienne Cartier

カナダ政治家、そして連邦の父として名を知られています。早期の生活に、カルティエはカナダ・イーストの政治リーダーでした。1838年彼はモントリオールに戻り、ローワ―カナダ革命に参加しました。長年のキャリアの中に、彼はカナダ東部西部の民法設立の促進に尽力し、州の初等教育を導入しました。

政治生活の初めの頃、カルティエはローワー・カナダ反乱に参加し、追放されましたことがありましたが、1838年にモントリオールに戻り、法律実務を再開することができました。1848年彼は法律の執行を断念し、改革派に入り、カナダ州立法議会の一人として選ばれました。連合議会時代い、カルティエはグランドトランク鉄道会社の創設のために法案を提出しました。1854年キャビネットに任命され、1857年から1762年にかけて、マクドナルドと一緒に連合首相として務めました。彼はシャーロットタウン、ケベック、ロンドンの三つの会議に出席し、フランスカナダの労働組合への支持を得て、大きな責任を負っていました。カルティエは立法改革を推進する上でも主導的役割を果たし、カナダ下町における土地所有の半封建制度を効果的に廃止し、立法評議会の選出を代表団に転換し、民法の採択の推進にも尽力をしました。

カルティエはオタワでの在任中、英国との交渉を担当し、ハドソン湾会社がノースウエスト地域(North-Western Territory)とルパート・ランド(Rupert’s Land)を購入にも担当しました。彼はマニトバ州の設立とブリティッシュコロンビアの議会入りに関する交渉に積極的に参加しました。そして1872年にはカナダ太平洋鉄道建設のために法案を提出しました。

1868年彼はヴィクトリア女王から男爵の位を受けましたが、後継人がいなかったため彼の死後に貴族名称は続かなかったです。オタワにあるマクドナルド・カルティエ国際空港は彼の名もちなんでいるもので、現在ノートルダム大聖堂の東にあるジョージ・エティエンヌ・カルティエ卿国定史跡があり彼の人生と業績を記念しております。これは19世紀の建築的な遺産として多くの人にしおられています。


オタワ・マクドナルド・カルティエ空港(Ottawa Macdonald-Cartier International Airport)

カナダの首都オタワにある国際空港。一般には尺してオタワ空港と呼ばれています。連邦政府形成時代の貢献者であるカナダの初代首相ジョン・A・マクドナルドと「連邦の父」と呼ばれている政治家ジョルジュ・エティエンヌ・カルティエにちなんで名づけられました。オタワの中心部より南へ10kmに位置し、カナダの6番目に乗降客数の多い空港です。
公式サイト:https://yow.ca/en

ジョルジュ・エティエンヌ・カルティエ国定史跡( Sir George-Étienne Cartier National Historic Site

ジョルジュ・エティエンヌ・カルティエの人生記念と成果記念として建てられた歴史博物館です。19世紀のモントリール上層階級の建物で、カルティエ家と隣接の住宅で再構成したものです。1964年にカナダの国定史跡になりました。
住所:458 Notre-Dame Street East, Montréal QC H2Y 1C8
公式サイト:https://www.pc.gc.ca/en/lhn-nhs/qc/etiennecartier

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